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日本初の電力会社「東京電燈」を立ち上げた男・”藤岡市助”の偉業

(2017.2.28)

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エジソンが白熱電球の改良に成功してから数年後、日本では初の電力会社「東京電燈」(東京電力株式会社の前身)が設立されました。
その「東京電燈」設立にあたり、発起人の一人になっただけでなく、白熱電球を量産化し、国内電気産業を興した一人の英傑がいました。のちに東芝の創業者となった工学者、藤岡市助です。
今回は、のちに「電力の父」「日本のエジソン」とまで呼ばれた藤岡市助の偉業に迫ります。

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藤岡市助 – 出典:山口県ひとづくり財団
http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/fujiokaichisuke/ 

日本で初めて電灯を点灯させる

1878年(明治11年)3月25日、後に「電気記念日」に制定されることとなるこの日、東京虎の門の工部大学校(現在の東京大学工学部)のホールに、日本で初めての電灯「アーク灯」が灯りました。当日は式典があり、そこでアーク灯を点灯しようという計画が進められていたのです。
実は藤岡市助、学生としてこの計画に参加していました。当日は蓄電池(バッテリー)の電気を使ったのでアーク灯を長時間灯すことはできませんでしたが、人々はその明るさに目を見張ったと伝えられています。
1881年(明治14年)、藤岡は工部大学校を首席で卒業。同年、工部大学校の助手に就任し、日本で初めて電気について書かれた本である「電信小誌」を発行します。
この頃、研究者として存在感を示していた藤岡のもとを、のちに東芝(芝浦製作所)の創業者となる田中久重が訪れます。二人は話をしているうちに「電球によって世の中は一変する」と意気投合。電球の普及を誓い合います。こうして藤岡は、日本の夜を電気の明かりで照らすことを夢見て、さらに電気の研究を進めていきます。

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出典:No.276 身近な道具の近代史2 | アーカイブズ | 福岡市博物館
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/276/index02.html 

エジソンとの出会い

その3年後の1884年(明治17年)、さらに出世して工部大学校の教授に就任していた藤岡は、国の使節に任命されアメリカに渡ることになります。
藤岡は、フィラデルフィアでの万国電気博覧会を視察したあと、ニューヨークにあったエジソン電灯会社(のちのGE社)を訪問。エジソンは、研究所を訪ねた藤岡に「電球を海外から輸入すればいいと考えていてはいけない。自分の国でも作ろうという気概がなければその国は滅ぶ」と語ったと言います。エジソンと面会し、電気器具の国産化を指導されます。
白熱電球をはじめとした様々な機器をエジソン電灯会社で見学し、エジソンの言葉に深く感銘を受けた藤岡は、米国の技術に深く感動。次の滞在地であるボストンからエジソンに手紙を書きました。手紙の中で藤岡は、白熱電球と電話機を日本のリーダー達に紹介したいので送ってくれるように依頼。翌年にはエジソンから工部大学校に36個の白熱電球と一対の電話機が届きました。
アメリカから帰国後、藤岡は白熱電球の製造に取り組み始め、国や経済界へ電球の実用化・国産化を積極的に働きかけていきます。ちょうど藤岡がアメリカに渡った年、日本ではアーク灯よりも小型で光が眩しすぎない白熱電球が、初めて上野・高崎間の鉄道開通式で点灯されました。白熱電球を使った暮らしや社会における白熱電球の利便性・事業性の認識は高まりつつあったのです。
そして、藤岡は電気で照らされる日本を実現するには、電球の国産化に加え、それを広く普及させるための事業会社が必要だと考え電力会社の設立を決意するのです。

「東京電燈」の立ち上げ

まず藤岡は、同郷出身で旧知の江木千之に相談。江木は長州出身で当時工部大学校を統括していた山尾庸三を紹介。藤岡は会社設立の必要性を説き、見事に説得を成功させます。山尾はすぐに、自身と同じく長州出身で元造幣局長矢島作郎を藤岡に紹介し、「東京電燈」の発起人を集めてもらいます。さらに、時同じくして電灯事業を始めようとしていた「日本電灯」も、共倒れを防ぐために渋沢栄一の力を借りて参加することになります。
そうして1886年(明治19年)、藤岡の提言により日本初めての電力会社「東京電燈」(東京電力株式会社の前身)が開業。同年、藤岡は帝国大学の教職を辞し、東京電燈の技師長へ転身。立身出世の道を断ち、英国から電球製造機械を輸入して、白熱電球の試作を開始します。

国産白熱電球の量産化に成功

東京電燈が開業したことによって、産業に使用できる電力体系が整備された日本。しかし、白熱電球自体はアメリカ製・ドイツ製などの高価な外国製品に依存するしかありませんでした。
そうした状況を背景に藤岡は1889年(明治22年)、京橋の東京電燈の社宅で試作・研究を開始します。翌1890年(明治23年)4月には、同じ山口県岩国市出身の三吉正一と共同で「白熱舎」を創設。本格的な電球製造に着手します。
当初、製造できたのは一日に数個だけ。しかし日夜苦労を重ねた末、品質が向上。白熱舎の創設から6年後には生産規模を日産280~290個まで拡大させました。ここに「電球国産化」の夢が実現したのです。

数々の偉業を達成

東京電燈を設立し、白熱電球の量産化に成功した藤岡の偉業はこれだけには留まりませんでした。

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出典:明治大正ネット
http://meijitaisho.net/ryounkaku/ 

1890年(明治23年)には、日本初の超高層建築物として注目を集めた「凌雲閣(浅草十二階)」のエレベーターを設計。また同年には、アメリカ外遊の際に手に入れた電車を自ら改良し、日本で初めて電車を設計し走らせました。
さらに1907年(明治40年)ごろには、現在の東海道新幹線にあたる「高速電気鉄道」も企画。1911年(明治44年)には、安価で丈夫な国産電球タングステン電球「マツダランプ」を発売します。
生涯にわたり懸命に努力を続けた結果、念願だった国産電球の更なる量産化に成功し、藤岡が理想とした社会がついに実現するのです。

次回は、のちに東芝の重電部門となる「芝浦製作所」の創業者、「からくり儀右衛門」こと田中久重の経歴に迫ります。

藤岡市助に関連する施設

岩国学校教育資料館(藤岡市助の関連資料等、約3,500点を展示)
http://kankou.iwakuni-city.net/iwakunigakko.html  

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